教会と国家の分離−憲法
栄誉ある原則であるアメリカの法律のひとつが“教会と国家の分離”です。アメリカ国民は建国者がこの原則をアメリカの法律に併合した時の意図が何であったか、そしてこの原則をどのように今日実践したら良いかを激しく論争しています。この論争は根本的真理や信仰の重要性に対する異なった見解から生じています。
アメリカ合衆国憲法に“教会と国家の分離”という言葉ははっきりと明示されていません。その代わり、憲法では宗教と政府の関係について三箇所言及しています。第一番目、第六項目、セクション3、では、公務員職に就くための宗教に関するテストは必要としない。残りの2つは米国憲法修正第一条で見る事が出来ます。一つ目は国教条項として知られ、政府は宗教設立に関する法律を設定してはならない。二つ目は実践する事の出来る権利として知られ、政府は宗教の選択と実行する自由を束縛する法律を設定してはならない。
教会と国家の分離−米国憲法修正第一条の解釈
“教会と国家の分離する壁”で良く知られた言葉は、トーマス・ジェファソン大統領が1802年に米国憲法修正第一条の働きについて説明した時の言葉です。アメリカ最高裁はその言葉を“正に”信頼すべき解説である、とした75年後までアメリカ法学の一部として使われていませんでした。(しかし、一夫多妻を保持するモルモン教徒の自由を干渉するものとなりました。)1947年より法廷で“教会と国家を分離する壁”という言葉は米国憲法修正第一条に関連する判定をする際頻繁に使われるようになりました。
少なくとも、教会と国家の分離は、アメリカが中東諸国のような神政国家ではない事を意味しています。アメリカ国民は、国のリーダーは神権、または神の権威によって国を統治するべきではないと信じています。教会と国家の分離により、教会と国家は全く異なった機関であり、お互いの内政問題を支配する権利を持たない事を意味します。政府は教会のリーダー選択に干渉せず、(一般市民として政府職に選ばれ任命されるような事はあっても)教会のリーダーとしての権威で政府につかえることは出来ません。英国ではこのような事が行なわれています。さらに、1947年Everson v.Board of Education,により最高裁は教会と国家の分離は実質的に宗教的アイデアと政府活動の間に一切関連してはならないと判定を下しました。
教会と国家の分離−今日の議題
最高裁の“教会と国家の分離”に対する見解は少数派宗教や無信仰の人々は保護しているにも拘らず、少数派宗教の多くは宗教の自由の権利が侵害されていると感じています。さらに、信仰の必要性と信仰は少なくとも道徳倫理と合法的生活に貢献する、と信じている人々の心を痛めています。数年来政府の役割が拡大するに従い裁判所の立場も付随してますます議題に上っています。今日アメリカ政府は社会生活の多くの問題に関与するため、公立学校システムの維持、多くの社会的利益の管理機関との間の壁は、如何なる宗教的アイデアも宗教も一般家庭の手前まで押し出されて来ました。このような状態が建国者の意図ではないと、多くのアメリカ国民は信じています。
教会と国家の分離−解釈の違い
法廷が宗教に関する問題に対して今日どれだけ憲法を参照し適応するかに関しては、主として二つの見解があります。
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当初の理解と意図。一部のアメリカ国民は、法廷は出来る限り米国憲法修正第一条が法案された当初の意図に基づき今日の問題を対処していくべきだと考えています。彼らは米国憲法修正第一条は人々の訴訟手続きによって成立した国法であり、憲法改正によってのみ修正されるとしています。アメリカ憲法と米国憲法修正第一条が設定された当初は、宗教の信仰は認められ尊重されていて、公共での祈りや聖書朗読などはアメリカ国民の本質的宗教として許可され論議の余地はありませんでした。そのため、現在この見解は政府が宗教に対して最も便宜を図るものと見なされています。
道徳の理解と意図。他の一部の人々は、憲法は一般的道徳である特定の原則を反映すべきで、法廷は努力してこれを解釈し今日の現実に必要尚且適用するべきであると論議します。